Hosei Erasmus Mundus Program Euro Pholosophy

Hosei Erasmus Mundus Program, Euro Pholosophy - Over the two academic years 2008-9 and 2009-10 at Hosei University, classes for the first semester of "Euro Philosophy", an EU Erasmus Mundus Master Program, have taken the form of one-month intensive lecture series. This is the first instance in Japan of administering such a large-scale intensive lecture series within the Erasmus Mundus Master Program.

Report

授業風景その4 (2012)

EUからの3名の先生による4月の授業も無事合わり、5月の連休を挟み、今回のプログラムは、日本人の先生を中心とした後半戦に入りました。その初めの授業として、東京大学の原和之先生の3回にわたる講義が開講されました。

今回の講義のタイトルは「'欲望'概念のラカンによる練り直しとエディプス・コンプレクスの改鋳」でした。(本講義の基礎となった原先生のご業績として以下の論文が挙げられます。Kazuyuki HARA, Amour et savoir ― Etudes lacaniennes, Collection UTCP, 2011)

本講義ではまず「欲望」の概念をめぐり、フロイト(1856-1939)とラカン(1901-1981)の接点に着目することで、ラカンの学位論文の中心主題ともなった「パラノイヤ」、「エメ」、そして原先生によると、認識論的な水準において「欲望の欲望」を規定する概念であると考えられる「欲望の公準」といった主要キーワードが説明され、次にヘーゲルとラカンとの関係について、主にコジェーブ(1902-1968)のテクスト『ヘーゲル読解入門』(1947)を引用しつつ、考察がなされました。

続いて、「意味作用」をめぐり、ソシュール(1857-1913)とラカンの関係について、主にソシュールの『一般言語学講義』(1916)を中心に検討し、一見ソシュールに依拠しているように見えながらも、「シニィフィエ」に対する「シニフィアン」の優位を説いたラカンが、「シニフィアン連鎖」といった概念により、どのようにソシュールと袂を分けていったのかについて解説がなされました。

そして最後に、ラカンの思索を理解する上で重要な「エディプス・コンプレックス」の概要が述べられ、ラカンの「グラフ」の説明も行われました。

以上、本講義は、プロジェクターと引用資料による丁寧な解説がなされ、本プログラムのフランスからの留学生においても、ラカンの遺した思索の意味が明らかとなりました。


原和之先生

富士山麓での交流 (2012)

4月21日から22日にかけて、法政大学文学部哲学科一年生の一泊研修が、法政大学富士セミナーハウスで行われました。ヨーロッパからの学生たちもそれに同行し、交流のひとときを持ちました。


自己紹介
食事タイム

天気はあいにくで富士山は見られませんでしたが、富士山麓の樹海を散策したり、氷穴を見学したりして、学生たちは、いつもとは一味違った週末を過ごしました。

樹海を望む
氷穴

授業風景その3 (2012)

EUからの教員として、アレクサンドル・シュネル氏に続き、3番手を務めるベルギー・ルーヴァン大学のグレゴリー・ジャン氏の6回にわたる授業が開講されました。

今回の講義のタイトルは「現前の形而上学、情感性、合理性」でした。(ジャン氏の業績のうち、本講義の内容の一部に関するものとして、以下の論文を挙げます。« Histoire et Être. Heidegger et l'esquive du présent », dans Phénice, numéro spécial : « Le Présent », mai 2009, pp. 55-70.)

筆者の理解した限りでの本講義の要点は、以下の通りです。

―ここでは、まず『声と現象』(1967)においてデリダ(1930-2004)が批判した、「現前の形而上学」に焦点があてられます。

―そこにおいて批判の的となったように、ハイデガー(1889-1976)は、『存在と時間』(1927)の中で、「現前」における「過去」の問題を中心に据えた議論を試みたのでした。そのハイデガーの議論は「過去の解放」という意味においては、ミシェル・アンリ(1922-2002)に通じるものがあり、ハイデガーの「死へ臨む存在」にアンリは「発生の現象学」を置き換えた、ということもできます。

―アンリはさらに、これを「自己触発」という概念を使って、さらに先鋭化しようとした印象を受けます。アンリの「自己触発」は、ハイデガーが『カントと形而上学の問題』(1967)で呈示したような、「地平(世界)」を介する「自己触発」とは異なるもので、アンリはそこにおいて、より際立った仕方で「生」の直接的な「情感性」を強調したと言えます。

―しかし、ジャン氏の解釈によると、アンリの思索は、そのようにして、「過去」の内に認められる根源的な次元に「情感性」を見出しつつも、「主観性」と「ア・プリオリ」とのつながりを「情感的」に再定義することで、むしろそこに「合理性」を露呈させている、と言うのです。そして、その場合、そこにおいて生じる「情感性」と「合理性」の関係を理解するために、ジャン氏が手掛かりにしたのは、キルケゴール(1813-1855)でした。

以上、ジャン氏の講義で中心的に扱われたのはミシェル・アンリです。アンリの思想に関する著作や論文は、日本において未だそれほど多くなく、今回、アンリの専門家によって日本でまとまった講義が行われたというのは、大変に貴重な機会であったと感じました。



ジャン氏

グレゴリー・ジャン講演会 (2012)

法政プログラムにおけるEUからの教員の一人で、ベルギー・ルーヴァン大学のグレゴリー・ジャン氏の講演会が、4月16日の15時より、東京大学文学部(本郷キャンパス)法文二号館二階教員談話室にて行われました。

東京大学の鈴木泉先生の司会のもと行われた本講演会のテーマは、「情感性とミシェル・アンリにおける既在性の形而上学」でした。(ミシェル・アンリ(1922-2002)の著作の編者としても知られるジャン氏の業績の一例として、以下の論文が挙げられます。« L'être-soi et l'être-seul : le problème de la solitude dans la phénoménologie de M. Henry », dans PhænEx. Revue de théorie et culture existentialistes et phénoménologiques, Vol. 6, n°2, « La solitude », 2011, pp. 109-130.)

本講演での発表方法は、ミシェル・アンリの主著『顕現の本質』(1963)を手掛かりに、フッサール(1859-1938)、ハイデガー(1889-1976)、デリダ(1930-2004)などを論客として置いて、「現前」、「情感性」、「既在性」といったアンリにおける主要概念の解釈を試みるものでした。

筆者の理解した範囲での本講演の要点は以下になります。

ジャン氏が提起した問題は、デリダが『声と現象』(1967)において批判的にとり上げた「現前の形而上学」の内に、アンリの哲学も入ることになるのか、ということでした。というのも、「生の現象学」を標榜したアンリは、志向性を自己に内在する情感性に重ね合わせて考えましたが、それは自己に「永遠に現前するもの」と見なされたからです。ただジャン氏は、アンリの言うこの「永遠の現前」は、過去を退場させるようなものではなく、反対に「絶対的な過去」のことなのだと主張しました。情感的自己に現前しているのは現在ではなく過去だというわけです。こうしてジャン氏によれば、アンリが展開したのは「現前の形而上学」ではなく、「既在性の形而上学」ということになります。今回の発表においてジャン氏は、アンリ思想の解釈の中心に時間の問題を置いており、私はそこに大変興味深いものを感じました。

およそ一時間におよぶ発表の後、しばしの休憩を挟み、活発な質疑討論の時間がもたれました。この講演会を通じて、ミシェル・アンリの思索の独自性が再評価されることになったのは間違いなく、20日より始まるジャン氏の講義への関心も大変に高まることになりました。


左:ジャン氏、右:鈴木先生
会場