Hosei Erasmus Mundus Program Euro Pholosophy

Hosei Erasmus Mundus Program, Euro Pholosophy - Over the two academic years 2008-9 and 2009-10 at Hosei University, classes for the first semester of "Euro Philosophy", an EU Erasmus Mundus Master Program, have taken the form of one-month intensive lecture series. This is the first instance in Japan of administering such a large-scale intensive lecture series within the Erasmus Mundus Master Program.

Report

オンジェイ・シュヴェツ先生の授業 (2015)

プラハ大学のオンジェイ・シュヴェツ先生による6回の講義が行われました。講義のテーマは「現象学の実用主義的転回」です。講義では、現象学の祖であるフッサール(1859-1938)から始め、それぞれ異なる観点からフッサール現象学を継承したハイデガー(1889-1976)、メルロ=ポンティー(1908-1961)、ヤン・パトチカ(1907-1977)を順に取り上げ、彼らに共通する、理論よりも実践を重視する立場の検討が行われました。

まず、フッサールは、事象の普遍的本質を認識することを目的として、意識を通して、世界を観念的に捉えようとしました。主観性を重視し、外的存在を超越とみなすフッサール現象学は、ただ、後期の思想において、自然を理論化しようとした近代科学と対決すべく、すべての客観的学問を判断中止(「エポケー」)して、学問以前に日常的実践において直観されている「生活世界」を取り戻すことを主張しました。

フッサールを批判的に継承したハイデガーもまた、主著『存在と時間』において、「世界内存在」というフッサールとは異なる枠組みで、理論に対する実践の優位を主張しました。ハイデガーは本書において、「認識」を「行為」に先立たせるのは、デカルト以降の近代的意識につながることとして、実践の意味を古代ギリシャにまで遡って語源的に捉え直し、近代形而上学との対決を試みました。ただシュヴェツ先生は、この実践的場(pragmata)を完全に前述定的(anté-prédicative)とするヒューバート・ドレイファスらの解釈には、留保を示されました。

他方、メルロ=ポンティーもまた、フッサールの思想を取り入れましたが、それは身体や世界を超越とみなし排除するフッサールではなく、知覚的な「生活世界」や身体経験を強調するフッサールです。また、「世界内存在」という用語から、メルロ=ポンティーにはハイデガーの影響も明確ですが、主著『知覚の現象学』のタイトルが示すように、彼の関心は、ハイデガーのような現象学的存在論にではなく、身体を通して現実世界にすでに投げ込まれているわれわれの生にあったと言えます。メルロ=ポンティーが、現象学を学説ではなく運動と捉えていたことも注目に値するでしょう。

最後に取り上げられたヤン・パトチカは、フッサールやハイデガーに学び彼らの影響を受けつつも、彼らを乗り越えようとしたチェコを代表する哲学者です。パトチカは、フッサール現象学に魅了されつつも、意識や自我の主観性に根差したその思想が、現実的な世界から距離を置き、身体的で実践的な活動を省みていない事実に疑問を抱きました。また、ハイデガーの存在論は、「世界内存在」としての人間を扱ってはいるものの、そこでの人間の独自性を十分には捉えていないと考えました。そうしてパトチカが展開した現象学は、人間が他者とともに投げ入れられている世界や社会における、運動としての現象学なのです。

以上の講義では、現象学が実践の観点を軸にして、現実の人間へとどう肉薄していったのかが、時間の流れに沿ってダイナミックに示されて、受講者たちは思想史の醍醐味を味わうことになりました。

オンジェイ・シュヴェツ先生
授業終了後、居酒屋にて

河野哲也先生の授業 (2015)

気づけばプログラム開始からはや二ヶ月、すでに梅雨入りの六月九日に、立教大学の河野哲也先生の三回の講義が行われました。「環境についての現象学的哲学」と題された本講義では、環境について幅広い検討が行われました。すなわち、まず諸概念の導入から始まり、和辻哲朗の「風土」概念の解説とそれに対する批判がなされ、それをふまえて、最後には環境哲学の役割が論じられました。

第一回の講義では、そもそも環境哲学・環境倫理とは何かの問い直しが、エマーソン、ソロー、熊沢蕃山、安藤晶益といった思想家の考えを通して、行われました。人間は、時には、環境に内包される一部と考えられます。また時には、特権的な地位に存在するものとも考えられます。倫理とは主体と他者との関係から生じるものですが、環境倫理においては人間と自然の関係が問われます。そこに人間中心主義や生物中心主義、あるいは環境中心主義などいくつかの立場が生じてきます。こうした立場は、「最も尊ぶべき存在とは何か」、「自然の価値とは何か」、「人間の地位はどこにあるのか」という基準となる三つの問にどう答えるかで区別されます。

昼休憩を挟んで行われた第二回で中心となったのは、「ウィルダネス」(wilderness)の概念です。「原生自然」とも訳されるこの概念が指すのは単なる自然ではなく、「それ自身の多様性によって十分な回復力を持つような環境」のことです。この「ウィルダネス」の概念との関連で取り上げられたのは小説家日野啓三です。多くの人は自然といえば田園的牧歌的自然を想像しますが、日野はそれについて「閉じこめられた狎れ合いの息苦しさを覚えてしまう」と批判します。我々が想像するような田園的牧歌的自然は、実は、人間によって管理された、人間的な価値によって支配された環境です。他方で日野は都市においてある種の自然を浮き彫りにします。都市とは人間的意味付けを失った多くの個が混じり合う多様体でありながら、一定の秩序を保ち続けています。日野においては都市は「ウィルダネス」への立ち返りなのです。

最後となる第三回では、和辻哲朗の「風土」概念が説明され、この立場からの環境倫理の問い直しが行われました。和辻における「風土」とは単なる土地や環境のことではなく、人間と自然が相互に関係することによって生じる環境です。そして、ここから明らかになるのは、自然・環境とは停滞した固定的なものではなく、それ自体が内包する多様性によって絶えず変化し続けるということです。そしてこの立場から、九州の諫早湾やオーストラリアのウルル(エアーズロック)での環境問題が考察されました。結論として河野先生が提案されたのは、多様性を尊重すべきということです。環境の健全な変化はそれが有する多様性によって可能となるのであり、多様性を無視した急激な変化は破壊をもたらします。それぞれの土地に根ざす生態と文化の多様性を拡大させること、これが環境・文化の漸進的な変化を可能にし、「風土」を守るのです。

ユーロフィロソフィでは、ヨーロッパからの学生と我々日本人学生とが交わり、相互に大きな変化を得てきたように感じます。現在でも様々な場所で文化の衝突は起きていますが、多様性を互いに認め尊重していくとき、衝突といったことではなく、互いの成長というプラスの成果が得られます。こうして今回の講義は、法政での今年度のユーロフィロソフィを締めくくるものとして大変意義深いものだったと思います。

授業風景
河野先生