Hosei Erasmus Mundus Program Euro Pholosophy

Hosei Erasmus Mundus Program, Euro Pholosophy - Over the two academic years 2008-9 and 2009-10 at Hosei University, classes for the first semester of "Euro Philosophy", an EU Erasmus Mundus Master Program, have taken the form of one-month intensive lecture series. This is the first instance in Japan of administering such a large-scale intensive lecture series within the Erasmus Mundus Master Program.

Report

授業風景その11 (2012)

東京大学の金森修先生の3回にわたる講義が開講されました。

本講義のテーマは「20世紀日本思想史のために」であり、ここではまず、大正期(1912-26)を代表する生理学者である橋田邦彦(1882-1945)が取り上げられ、『生理学要綱』(1923)などの科学的著作が紹介されつつ、道元(1200-1253)を尊敬し、科学を宗教的実践と捉えていた橋田における、科学と禅宗の関係や、「行としての科学」といった構想が、「全機性」という彼の思想的背景を踏まえながら説明されました。なお、橋田の著書でもある『行としての科学』(1939)については、別途ハンドアウトによる紹介がなされ、「物心一如」、「唯観」、「主客未分」といった主要概念の説明により、橋田思想の一元的世界観が浮き彫りとなりました。

次に、戦中期日本の文芸誌『文学界』(1942年9・10月号)の特集記事に掲載された13名の評論家によるシンポジウムである「近代の超克」について紹介がありました。小林秀雄(1902-1983)、西谷啓治(1900-1990)、亀井勝一郎(1907-1966)、吉満義彦(1904-1945) といった当時の名高い思想家の議論が紹介された後、そのうち、下村寅太郎(1902-1995)については、彼の「機械観」をめぐり、金森先生の御業績の一つである論考が発表されました。(SHIMOMURA TORATARŌ ET SA VISION DE LA MACHINE, Ebisu, no. 40-41, Automne 2008 - Été 2009, pp. 115-125)

最後に、戦後を代表する日本人科学哲学者の大森荘蔵(1921-1997)が取り上げられ、『物と心』(1976)などの主著が紹介され、彼の独特な一元論における「立ち現われ」の観念、さらに、『時間と自我』(1992)を中心とする時間論が説明され、同書における「言語的制作としての過去と夢」が、金森先生の仏訳により読み上げられました。

戦時期の日本における思想史の歩みを辿った本講義は、留学生にとって、政治・歴史的観点からも興味深い内容であり、現代日本においても、再考に値する貴重な講義であることを実感しました。


金森修先生

授業風景その10 (2012)

大阪大学の村上靖彦先生の3回にわたる講義が開講されました。

本講義のテーマは「質的研究における現象学」であり、村上先生ご自身が行った看護師・助産師へのインタビューデータを分析するという主旨のもと、フッサール(1859-1938)、ハイデガー(1889-1976) 、レヴィナス(1906-1995) 、マルディネ(1912-)を念頭に置きつつ、配布されたレジュメをもとに議論が進められました。

末期がん患者の緩和ケアや人工妊娠中絶に携わる看護師や助産師との対話の分析を通して、死にゆく人あるいは死者といかにしてコミュニケーションを取るのか、その現象学的構造を探ることが主題となりました。「死への存在」や「原創設」といったいくつかの現象学の概念を具体的な場面と対照させることで、新たな意味を見つけ出す努力を行なっていました。医療現場と現象学を対峙させる手法が、非常に印象深い講義でした。(本講義の参考となる村上先生の御業績の一例として以下が挙げられます。Yasuhiko Murakami,« La gravite et l'eau. - Dialogue avec un patient atteint de la SLA »,Annales de phénoménologie,vol.11, pp.169-179,2012. 『傷と再生の現象学』青土社、2011)


村上靖彦先生

授業風景その9 (2012)

九州産業大学の藤田尚志先生の3回にわたる講義が開講されました。

本講義のテーマは「ベルクソン哲学入門――レヴィナス、ドゥルーズとの対決を通して」でした。

本講義ではまず、「ベルクソンとレヴィナスにおける『物質と記憶』」と題するレジュメが配布され、ベルクソン(1859-1941)とレヴィナス(1906-1995)に焦点が当てられました。

まず、前期レヴィナスは、ハイデガー(1889-1976)の問題を乗り越える試みの中で、「ある」や「多産性」といった概念を作りましたが、彼はベルクソンの「無の観念の批判」や「エラン・ヴィタル」などの議論に影響を受けつつも、これらを批判することで、自らの「物質性=質料性」論を構想しているという点が指摘されました。こうして前期の主著『全体性と無限』(1961)の可能性と限界が浮き彫りにされると同時に、ベルグソンの『創造的進化』(1907)における質料性の議論について、その問題点を乗り越える方向が見出されました。

次に、この比較研究の延長線上で、後期レヴィナスの主著『存在するとは別の仕方で』(1974)などで展開される、「記憶/記憶を絶したもの」という概念対について、説明がありました。後期ベルクソンにおけるこれに対応する概念対として、『道徳と宗教の二源泉』(1932)における、「閉じたもの/開いたもの」が挙げられ、前期ベルクソンの『物質と記憶』(1896)の「感覚運動的記憶/純粋記憶」という概念対との関係とともに、レヴィナスとの共通点と差異が示され、これらの議論を整理する過程で、ベルクソン哲学の「無為」という概念の重要性が強調されました。

さらに、上記の議論を踏まえ、「偽なるものの力と記憶の無為―ドゥルーズか、ベルクソンか」というレジュメが配布され、ベルクソンとドゥルーズ(1925-1995)の親和性や類似性ではなく、根本的な差異を取り出そうとする試みが展開されました。ベルクソンにおける「潜在的なものの現働化」から「純粋な潜在性」の論理を抽出する際に、ドゥルーズがベルクソンに対してどのような解釈の暴力を行使しているか、そして、「純粋記憶」の「無力」と「無為」を区別することによって、ベルクソン哲学の根本的な「動的行動性/幽在論」と、奇妙にも見落とされているドゥルーズ哲学の「静的観照性/存在論」との対比を、明確化するという議論が、論拠となる諸テクストの読解とともに示されました。

明確なフランス語による本講義は、ベルクソン哲学の紹介にとどまることなく、フランス本国の研究者と肩を並べる、本プログラムの日本側の教員の水準の高さを物語る機会となりました。(本記事の作成にあたり、東京大学の木山さんにご協力を頂きました)


藤田尚志先生

授業風景その8 (2012)

現在、京都大学で研究生をされているヴァンサン・ジロー先生の3回にわたる講義が開講されました。

本講義のテーマは「西谷啓治と形而上学」であり、ここでは、日本の哲学者で、京都学派の西谷啓治(1900-1990)について、彼の著作『宗教とは何か』(1961)を中心に、西田幾多郎(1870-1945) やハイデガー(1889-1976)に師事しながら、西谷がいかに彼らを乗り越えていったのかについて議論が行われました。

筆者の理解した範囲で、本講義における西洋思想との文脈で興味深かったのは、西谷が「ニヒリズム」の克服を目論んだ点でした。西谷は最終的に「大乗仏教」の伝統に根ざした「空」の立場につきましたが、例えば、西谷は著書『ニヒリズム』(1949)において、ハイデガーのニーチェ(1844-1900)解釈を批判的に考察しながら、「ニヒリズム」と「空」の関係を主題的に扱っています。そしてこの「空」を理解するために欠かせないのが「虚無」の観念といえます。というのも、とりわけ、西谷の時間論における「虚無」の位置付けは重要であり、それを踏まえ、『宗教とは何か』で繰り返し強調され、西谷によると、ニヒリズムの真の克服を可能にするのが、「虚無」の立場から「空」の立場への転換だからです。

西谷の時間論は、アウグスティヌスにまで遡ると思われますが、ジロー先生の博士論文が、アウグスティヌスを主題としたものであり、また先生の目下のご関心が、キリスト教と仏教の関係をめぐり、古代西洋哲学から現代東洋思想までを一巡するものであることについて、彼がエラスムスプログラムの理念にかなう研究者であることを実感しました。(ジロー先生の博士論文のタイトルは以下の通りです。Signum et vestigium dans la pensée de saint Augustin. Par Vincent GIRAUD)


ヴァンサン・ジロー先生