Hosei Erasmus Mundus Program Euro Pholosophy

Hosei Erasmus Mundus Program, Euro Pholosophy - Over the two academic years 2008-9 and 2009-10 at Hosei University, classes for the first semester of "Euro Philosophy", an EU Erasmus Mundus Master Program, have taken the form of one-month intensive lecture series. This is the first instance in Japan of administering such a large-scale intensive lecture series within the Erasmus Mundus Master Program.

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チエリー・オケ先生の授業 (2013)

4月15日の午後、リヨン第三大学教授のチエリー・オケ(Thierry Hoquet)先生による一日だけの講義(全二回)が行われました。

この講義はチャールズ・ダーウィン(Charles Darwin 1809-1882)の進化論を扱っていますが、その中でも特に「性淘汰(sélection sexuelle)」と呼ばれる概念がテーマです。ダーウィンの自然淘汰(sélection naturelle)はよく知られていますが、性淘汰はその自然淘汰からの派生概念であり、メスを獲得するために同種族のオスが争うことを意味します。ダーウィンの著作において、この概念は『種の起源(Origin of species)』(1859年)では軽く触れられているだけですが、後の『人の由来(The Descent of Man)』(1871年)では中心的なテーマになっています。

性淘汰の特徴はどこにあるのでしょうか。自然淘汰(あるいは自然選択)はまず何よりも「生存のための争い」ですが、生存を左右するのは環境への適応であるため、「争い」といっても比喩的な意味のものでしかなく、また「選択」といっても選択をする何者かが存在するわけではありません。これに対して性淘汰は実際にオス同士が争い、また勝者を選択する者としてのメスが存在します。そして自然淘汰と違って敗者には死ではなく、子孫を残すことの困難という形での不利が生じます。

今日、性淘汰は自然淘汰の最も本質的な形態と見なされていますが、ダーウィンが性淘汰を提唱したのはあくまで、自然淘汰の概念に伴ういくつかの困難に対する説明仮説としてでした。たとえば、緑地のない地域に生息している鳥が、緑色のクチバシを持っているということがあります。クチバシの色は身を隠すのを困難にするだけで、生存に有利な特性ではないため、なぜこんな色をしているのか、自然淘汰では説明がつきません。そうした生存のためには不利な装飾的性質が存在することに対して「メスの気を引くため」という説明を与えるのが性淘汰です。性淘汰は同種の生物においてオスとメスの姿が異なるという現象(dimorphisme)を生み、それは武器または装飾(クチバシや羽の色など)の発展という形で表現されることになります。ジョン・ベイトマン(John Bateman 1919-1996)はハエの観察実験から、オスの繁殖成功度は環境に依存するがメスの繁殖成功度は環境に無関係であることを発見し、その原因はオスとメスの役割の違いにあると結論しました。ベイトマンによると、オスは繁殖の相手を選ばず誰とでも交尾するのに対して、メスは繁殖により大きなエネルギーを注ぐため慎重に相手を選ぶ性質を持っています。これが性淘汰の原因ということになります。

オスは互いに争い、メスはオスを選ぶという性ごとの役割は一見対称的に思えますが、実は違います。オス同士の争いはオスが用いる武器の発展を促すのだし、メスによる選択が促す発展もまた、オスの装飾でしかありません。つまり性淘汰が働きかけるのは基本的にオスに対してのみなのです。このような性淘汰の考え方はアントワネット・ブラックウェル(Antoinette Blackwell 1825-1921)やサラ・ブラファー・ハーディー(Sarah Blaffer Hrdy 1946-)などによって、主にフェミニストの観点から多くの批判を受けています。性淘汰の考えに従うなら、女は進化してこなかったということになるからです。特にロバート・ストーラー(Robert Stoller 1924-1991)が提唱したジェンダー(社会的に形成されたものとしての性)の概念は、我々が(生物学的な)性について語っているときも、そこにはすでに社会的な要素が紛れ込んでいることを明らかにしました。それはつまり我々が生物学的な必然だと思っていることも、実は歴史的に構築されたものにすぎないということです。たとえば古代において男性器と女性器は同じものを違う形で表していると考えられており、男と女は明確に区別されていませんでした。したがって「男と女」という区分自体が、すでに社会的なものを含んで成立しているということになります。

以上のことを踏まえると、ダーウィン/ベイトマンの性淘汰モデルは不十分であり、拡張される必要があることになります。しかしこの必要性はフェミニズムの観点からの要請ではなく、むしろ単純に旧来のモデルが事実に反していることによります。大部分の生物種においてメスが繁殖により多くのエネルギーを費やしているというベイトマンの主張は、哺乳類に限って言えば正しくても、他の類では必ずしも当てはまりません。鳥類の場合、卵を産むのはメスの仕事でも、孵化や産まれてきた子供の世話はオスの仕事であることが少なくないのです。

講義では最後に、生物の性的関係について語ることに伴ういくつかの問題点が指摘されていました。たとえば性淘汰においてメスがオスを選ぶという場合、いったい何を基準に選ぶのか?一般的に生物学では「子孫を残す能力」がその基準だとされていますが、このような統一的な基準を設けることは、同じ性別の個体は全員が同じ基準で配偶者を選ぶと想定することであり、個体間の差異を考慮に入れていません。それに性行為と繁殖行為は同じものではありません。多くの生物種に同性愛的な振る舞いが見られるという事実も、性的関係が繁殖のみを目的としたものではないことを示しています。問題は結局、擬人化(anthropomorphisme)にあります。自然界の現象を観察する際、我々はどうしてもそこに自分たちの視点を当てはめてしまうからです。たとえばある鳥のメスが最初に交尾したオスを離れて別のオスと交尾することを「寝取られる(cocuage)」と呼ぶように、我々は社会的に構築された観点を用いて自然界の出来事を語っています。ここには自然を社会化してしまう危険性があると同時に、反対に社会を自然化してしまう危険性もあります。人間社会の行動に生物学的起源を求めると、たとえばレイプも結局は繁殖のための一戦略にすぎず、何ら異常な行為ではないという結論が可能になってしまうのです。

我々はこの問題にどう対処すればいいのでしょうか?生物学それ自体を社会的産物にすぎないものとして捨て去ってしまうのでないとしたら、我々は生物学を生物学者だけに任せておくことはできない、とオケ先生は言います。自然化の危機を避けるためには、生物学が自然について語る仕方に常に注意しておかなければならないからです。


オケ先生

ロッコ・ロンキ講演会(東京大学)(2013)

去る4月10日(水)18時より、東京大学駒場キャンパス18号館4階コラボレーションルームにおいて、イタリア、ラクイラ大学のロッコ・ロンキ先生の講演会が行われました。今回の発表タイトルは、「盲目の直観―現代思想における精神分析と現象学の討論」でした。

本発表でロンキ氏は、まず、フロイト(1856-1939)が唱えた「無意識」について言及し、その発見と、後にラカン(1901-1981)の言う「現実的なもの」(le Réel) との関連を示唆しました。この「現実的なもの」の性質を明らかにするため、時代と分野を遡り、カント(1724-1804)が『純粋理性批判』(第1版1781年、第2版1787年)において記した「概念なき直観は盲目である」という一節の「盲目の直観」(l'intuition aveugle)という言葉に着目し、それを「視ること」(un regarder)と捉えました。その後、ハイデガー(1889-1976)における「アレーテイア」(αλήθεια)の概念、ベルクソン(1859-1941)の「イマージュ」、ドゥルーズ(1925-1995)の『シネマI』(1983)の議論などを辿った後、再度フロイトに回帰して、彼の「原風景」(Urszene)に触れて、「盲目の直観」についての解釈を深めていきました。

精神分析をはじめ、幅広い学問分野を押さえながら、多様な哲学者が論客として取り上げられた本発表会には、様々な専門領域の研究者の方々が参加され、質疑討論の時間には、異なった観点から多くの意見が交わされる、たいへん興味深い発表会となりました。

ロッコ・ロンキ先生
会場の様子
ロンキ先生と司会を務めた原和之先生