Hosei Erasmus Mundus Program Euro Pholosophy

Hosei Erasmus Mundus Program, Euro Pholosophy - Over the two academic years 2008-9 and 2009-10 at Hosei University, classes for the first semester of "Euro Philosophy", an EU Erasmus Mundus Master Program, have taken the form of one-month intensive lecture series. This is the first instance in Japan of administering such a large-scale intensive lecture series within the Erasmus Mundus Master Program.

Report

鈴木泉先生の授業 (2013)

東京大学の鈴木泉先生の三回にわたる授業が開講されました。今回の講義のテーマは、G.ドゥルーズの哲学を中心とした「ドゥルーズと離接的論理」でした。(本講義の参考となる鈴木先生の著作の一例として、以下が上梓されています。「ドゥルーズ哲学の生成:1945-1969」『現代思想』「ドゥルーズの哲学」第30巻第10号、青土社、2002年、pp. 125-147.)

各講義の主題は、以下の通りでした。
1.『差異と反復』における「超越論的経験論」について
2. ハイデガーとドゥルーズにおける「差異」の概念
3.『千のプラトー』における「リトルネロ」について
以下では、筆者にとって印象的であった「超越論的経験論」について、議論の部分的背景を紹介させて頂きます。

ドゥルーズ哲学は、一貫した超越論哲学と言われますが、彼は、カント哲学に由来する超越論的哲学の深い影響を受けながらも、それに批判と変更を加えています。ドゥルーズによれば、カントは日常的な経験の枠組みの「転写」(décalque)としての超越論性の探求をしており、そこにおいては、超越論的なものと経験論的なものとの条件づけを巡って、悪循環が生じています。ドゥルーズは、これを断ち切るべく、経験の発生の実質的な条件を探究することを目指しました。そのための作業として、ドゥルーズはまず、超越論的なものによる経験の発生、という見方をします。しかし、ここでは、先の悪循環を免れていないため、続いて高次の経験論を提示します。すなわち、彼によると、日常的な経験とは、感性や理性といった諸能力(facultés)が、安定しながら調和して働くことにより生じますが、これらが調和しないで成立する、高次な経験が存在します。これは、「差異」(différence)との「遭遇」(rencontre)という暴力的な契機により可能となる真の経験となります。また、諸能力は、共同して働くのではなく、非調和的になって初めて真に活動すると述べられます。さらにドゥルーズは、この高次の経験にとどまることなく、これが超越論的なものになる、という意味での超越論的経験論を語ります。ここでは、超越論的なものと経験論的なものとが創造的関係にあり、「非人間的」(inhumanistique)な経験が問題となってきます。
以上は、筆者の理解による、初回の講義の文脈の一部ですが、他の講義においても、思想史における、ドゥルーズ哲学の非常に興味深い主題が考察されました。

鈴木泉先生

フロランス・ケマックス講演会(明治大学)(2013)

去る4月20日(土)、16時より、明治大学駿河台キャンパスリバティタワー1075室において、ベルギー、リエージュ大学のフロランス・ケマックス先生の講演会が行われました。今回の発表タイトルは、「政治と生権力:私たちは生の政治を必要とするのか?」(Politique et biopouvoirs : avons-nous besoin d'une politique de la vie ?)でした。(本発表に関連するケマックス先生のご業績の一例として、以下が挙げられます。( « Le concept de biopolitique est-il un concept critique ? », in Medicalizzazione, sorveglianza e biopolitica. A partire da Michel Foucault (a cura di Natascia Mattucci, Gianluca Vagnarelli), Milano- Udine, Mimesis filosofie, 13-29. (2012))

本発表では、フーコー(1926-1984)の『監獄の誕生-監視と処罰』(1970)における、「生政治」の議論が主に扱われました。周知のように、フーコーは、人がルールに従わなければ殺してしまったり、従えば放っておく、というような古代からの権力像とは異なり、個人の身体や人口全体を通して、人々の生に積極的に介入して支配し、管理することで、住民を心から服従させようとする、近代以降の権力のあり方を、「生権力」と呼びました。これは、近代になってから個々人の自由が認められるようになったという一般的イメージを覆すもので、むしろ、個人を管理する技術としての権力が発達してきたとフーコーは捉えました。この考え方の普及によって、特に人間科学の分野では、今日に至るまで、これと関連する多くの研究が生まれました。

しかし、こうした「生権力」によって行われる「生政治」を想定した場合、この議論は、どのような法律や政策ならば権力を正当化できるのか、という現実的問題も抱えています。また、哲学との関係で言えば、自由や平等といった主題を権力との関係で論じた、とりわけ近代政治哲学の文脈で、フーコーの権力論を論じるには、大きな困難が伴います。そのような中で、例えば、イタリアの哲学者ロベルト・エスポジト(1950-)は、われわれが、政治を語る時の語彙、つまり、歴史ある政治哲学の概念体系そのものを変えるべきであると主張しています。

本発表でのケマックス先生の主張は、この論争にかんして、アーレント(1906-1975)やカンギレム(1904-1995)などの思想家を引き合いに出しながら、正しい生の理論の在り方を問うものであり、それによって、近代的な政治哲学が基盤としている、「人間学」(anthropologie)の観点から、新たな概念体系を無から作るのではなく、その刷新を試みるための可能性を探る、という内容でした。

「国立科学研究基金」の研究員も務めておられるケマックス先生は、そこにおいて、政治社会思想もご専門にされています。今回の来日発表において、最新の研究報告をして頂き、たいへん有益な時間となりました。

ケマックス先生
ケマックス先生と司会を務める合田正人先生
質疑に臨む金森修先生