Hosei Erasmus Mundus Program Euro Pholosophy

Hosei Erasmus Mundus Program, Euro Pholosophy - Over the two academic years 2008-9 and 2009-10 at Hosei University, classes for the first semester of "Euro Philosophy", an EU Erasmus Mundus Master Program, have taken the form of one-month intensive lecture series. This is the first instance in Japan of administering such a large-scale intensive lecture series within the Erasmus Mundus Master Program.

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藤田尚志先生の授業 (2013)

5月10日から17日までの一週間、藤田尚志先生の講義が行われました。

講義のテーマは形而上学と隠喩(métaphysique et métaphore)です。マルティン・ハイデガー(Martin Heidegger 1889-1976)は1957年の『理性の原理』(Le principe de raison)第六章の中で、隠喩と形而上学との結びつきを語っています。ハイデガーにとって西洋の形而上学とは見えるものから見えないものへの転移(transposition)であり、その意味で言葉の具体的意味から比喩的な意味への転移である隠喩は、形而上学的な意味を持つものであるということになります。ハイデガーは「隠喩的なものは形而上学の内側にしか存在しない」とまで述べています。講義はここから出発して、隠喩と形而上学との関係性を探ること、またそれに伴う数々の問いを検討することを目的としています。

第一回は導入として、西洋思想における隠喩の歴史的位置づけ、および隠喩がどのように定義されてきたかについての解説でした。アリストテレス(Aristote 前384-前322)の『詩学』(Poétique)および『弁論術』(Rhétorique)では、隠喩とは比喩(analogie)の一種であり、対比関係を明確にせず、暗示的に表現することを特徴とするとされています。例えば昼(jour)という言葉によって若さを、夜(nuit)によって老いを意味するとき、そこには「一日の時間における昼と夜との関係は、年齢における若さと老年との関係に等しい」という比喩が隠れているというわけです。この意味において、アリストテレスは隠喩と比喩一般を区別しておらず、厳密な分類にはなっていないと言えますが、アリストテレスが目指していたのは単に隠喩を言語学的に分類することではなく、詩的な言葉が持つ形而上学的な作用、すなわち既存の表現に変化を加えることで新たな意味を創造していく作用を解明することでした。しかしアリストテレス以降、隠喩は主に文学的修飾として、あるいは言語的機能のひとつとして考察されるようになり、哲学の領域からは離れていきました。例えばセネカ(前4頃- 65)はこの世のあらゆる物に名前を与えることは不可能であるため、ある名前を使って本来それが意味するのとは別の物を指すこと(=隠喩)は必要なことであるとしています。近代に入ってからは純粋な文学表現以外の観点からも隠喩が考察されるようになり、特にデュマルセ(César Chesneau Dumarsais 1676-1756)は隠喩を科学的な手法で定義しようと試みています。

しかし古代から近代にいたるまで、隠喩は常にある意味をひとつの言葉から別の言葉へと移動させること(transport)として捉えられており、したがって隠喩には常に、それに対応するひとつの意味があると考えられていました。隠喩を哲学的に考察するには、この一義性(univocité)を乗り越える必要があります。

第二回の講義では、アンリ・ベルクソン(Henri Bergson 1859-1941)の思想における隠喩の位置づけを探りました。ベルクソンは一方では文章の名手として知られ、ノーベル文学賞を受賞しているほどですが、他方で彼の思想には言語に対する批判が多く見られます。したがってここには一見したところ、矛盾した態度があるように思えます。

ベルクソンの思想においては、生には二つの側面があります。ひとつは生存(survie)であり、これは実用性と必要性の領域です。我々は生き延びるために行動せねばならず、その必要性に基づいて世界を切り取り、把握しています。我々の日常的なあり方はこの生存の原理に支配されており、言語や科学も有用性を追求するものとして、この領域に属しています。しかし生にはもうひとつの側面があり、それはいわば生存を超えた生(sur‐vie)です。これは精神の領域であり、有用性とは関わりを持たない創造に向って我々を突き動かす不断の運動です。「生のはずみ(élan vital)」とも呼ばれるこの流動的実在を切り取り、固定した物質として表象するのが我々の日常的な知覚であり、そこにおいて中心的な役割を果たしているのが、ベルクソンによれば言語です。言語は実在の繊細なあり方を、記号によって一般化してしまうからです。つまりベルクソンの思想においては、言語の通常の使用がすでに現実の歪曲(violence)であるということになります。しかし彼自身が多くの比喩を用いて自らの思想を語っていることからもわかるように、ベルクソンは言語の使用そのものを糾弾しているわけではありません。言語による歪曲を修正するためには、言葉そのものを歪曲する(violenter les mots)必要があるとベルクソンは述べています。これがベルクソンにおける隠喩の位置づけということになります。なぜなら、ありのままの現実を変形させるという意味では、通常の言語がすでにひとつの隠喩なのであり、そのため隠喩的に言葉を用いることは、言語によって行われた逆転を再びひっくり返すことにほかならないからです。言語による創造はこのようにしてはじめて可能になります。したがって作家の使命は言葉が持つ自然な傾向に逆らうこと、実現不可能なものを実現すること(réaliser l'irréalisable)にあるということになります。

ベルクソンの思想において「歪曲された言語」としての隠喩が占める位置は、中間(l'entre)であることを大きな特徴としています。隠喩的なものは、一方では通常の言語、すなわち生存の必要性に基づいた言語とは異なるものですが、他方で完全に非言語的な、純粋な精神の領域に属しているわけでもありません。それはむしろ両者の中間において生じる何かなのです。そのためか、ベルクソン自身が用いている比喩表現は言葉それ自体がまったく新しいといったようなものではないし、また特定の比喩あるいは隠喩が決定的な重要性を持っているということもないのです。

第三回の講義では、ジャック・デリダ(Jacques Derrida 1930-2004)とポール・リクール(Paul Ricoeur 1913-2005)が交わした隠喩に関する論争を扱いました。デリダは1971年に『白い神話』(La mythologie blanche)を発表しましたが、リクールは1975年の『生きた隠喩』(La métaphore vive)の中で、デリダのこの著作に批判を加えました。さらにそれに対する回答として、1978年にデリダが『隠喩の引退』(Le retrait de la métaphore)を発表した、というのが論争の経緯です。

リクールが批判しているのは、もともとハイデガーの主張である「隠喩と形而上学の一致」という考えをデリダが採用している点です。そのためこれはハイデガーに対する批判でもあるわけですが、それに加えてリクールはハイデガーのテクストにおける隠喩(métaphore)と隠喩性(métaphoricité)は区別しなければならないと述べています。隠喩とはある既存の意味からまた別の既存の意味への移行であり、そこに新しいものは含まれていません。それに対して、ハイデガーの著作に見られるいくつかの隠喩的表現は、それまで明らかにされていなかった内容を示しており、単なる隠喩とは異なるとリクールは主張します。

リクールの提唱する「生きた隠喩」という概念は、隠喩と隠喩性とのこの区別を念頭に置いています。生きた隠喩とは新たな意味が発生する創造的過程であり、語彙上の必要性から既存の表現を使いまわす転化表現(catachrèse)とは区別されます。後者はいわば「死んだ隠喩」であることになります。生きた隠喩が使い古され、磨滅(usure)することで死んだ隠喩になっていくというエントロピーの過程がここでは想定されています。哲学はこの使い古された隠喩に新しい意味を与えることで、生きた隠喩を作り出すのだとリクールは述べています。哲学の概念はこのように(少なくとも部分的には)死んだ隠喩から生じるものであるため、哲学と隠喩との間には本質的なつながりがあることになります。しかし隠喩を生きたものにすることは、単に死んだものを再生させることではなく、別の仕方でそれを生き直すことなのだとリクールは述べています。その意味で生きた隠喩の産出である哲学は、隠喩とは別の領域に属するものであることになります。

それに対してデリダは『白い神話』の中で、隠喩の領域は常に補足されうるものであり、それゆえ限定も制御も不可能であると述べています。つまり隠喩はどこまでも広がりうる開かれた領域であり、その総体は特定の言葉や表現ではなく、むしろ既存の表現、つまり使い古された隠喩によって構成されています。デリダにおいては、隠喩が持つこの補足性(supplémentalité)が哲学の概念に影響を及ぼすとされています。そのため哲学と隠喩との間に明確な一線を引くことはできないのです。ここから、デリダは隠喩の磨滅(usure)とそれが概念に交代することを同じものとして捉えていることがわかります。リクールのデリダに対する批判は、この混同に向けられているのです。隠喩が死んでいく過程は、生きた隠喩が生まれる過程とは別のものだからです。リクールとデリダとの相違はこの点にあると言えるでしょう。

しかしリクールとデリダは、隠喩を概念の領域に解消することを望まず、詩的言語(=隠喩)がそれ自体として持つ意味を認めようとしているという点では一致しています。両者は共に、概念に還元不可能な意味を持つものとして隠喩を扱わなければならないと考えているのです。

藤田尚志先生
藤田先生と学生たち