Hosei Erasmus Mundus Program Euro Pholosophy

Hosei Erasmus Mundus Program, Euro Pholosophy - Over the two academic years 2008-9 and 2009-10 at Hosei University, classes for the first semester of "Euro Philosophy", an EU Erasmus Mundus Master Program, have taken the form of one-month intensive lecture series. This is the first instance in Japan of administering such a large-scale intensive lecture series within the Erasmus Mundus Master Program.

Report

安孫子信先生の授業 (2014)

法政大学教授であり、本プログラムの日本側実施責任者でもある安孫子信先生による全三回の授業が行われました。

授業では、「三段階の法則」や「社会学」、「実証主義」、「人類教」など、後世に大きな業績を残したにもかかわらず、生涯在野の学者として過ごしたオーギュスト・コント(1798-1857)の視点から19世紀における科学と哲学の間の力関係に注目していきました。

コントは数学、天文学、物理学、化学、生物学に続いて、これらを総括する地位を持つ社会学の誕生が人間社会においての急務だと考えていました。フランス革命以降の市民社会の不安定な情勢から、人間精神およびそれに伴う学問体系の進歩が彼にとって大きなモチーフになっていたのは簡単に推測されます。また、17世紀の科学革命以降、従来の自然哲学は科学哲学にその地位を奪われざるを得ませんでしたが、分かりやすい例では、コペルニクスをはじめとする天文学的な発見はアリストテレス的な目的論的な宇宙観とは相容れるものではありませんでしたし、天上のものと地上のものというキリスト教的な世界観も覆されることになります。自然哲学はもはや自然現象を観察する権利を上記の物理学や生物学などの自然科学に譲り渡さなければならなくなったのです。

ここで指摘すべき点は以下のようになります。つまり、神学的ないし形而上学的視点の持つ技術的な観察能力不足を抜きにするとしても、前者は何かしらの想像力、後者は絶対的原理の措定という過ちを犯しているのです。言い換えれば、両者は、たとえ後者が理性的または論理的に現象を観察していたとしてもその方法論において、あまりに主観的であり、実証的な視点を欠いているのです。そうして、新しく求められる主観性とは、内に閉じこもった絶対的内在的主観性ではなく、社会へと開かれ、なおかつそれが過去と未来における他の主観性へと地続きであるという意味で歴史的なものでなくてはなりません。

コントのこうした非-内在主義的な現象へのアプローチは、彼の三段階の法則においては神学でも形而上学でもなく、科学へと位置づけられます。つまり、コントにおいて、社会学は、諸科学のその主体である人間の認識に関する学問であり、実証主義とは社会学における認識論的方法論なのです。彼に言わせれば、哲学もこうした方法論に従わない限り無意味な学問となるでしょう。デカルトのいう「哲学の木」の根には、統一的学問としての社会学こそがふさわしいのだとも言えそうです。

また、最終回においては、われわれには周知のとおり西周(1829-1897)によって日本に哲学が導入され、また西が哲学という場合には、多くの場合コントのいう社会学を意味していることが確認されました。つまり、日本においては、神学的段階と形而上学的段階という歴史を持つことなく実証的段階としての哲学が導入されたということになります。

「哲学とは何か」という問いはそれこそ哲学が生まれた時代から現代にまで残る根源的な問いです。現代に生きるわれわれが哲学と言うとき、それはいったい何を指示しているのでしょうか。今回の授業では、留学生たちにはもちろん日本人である私にも西による日本での哲学受容が必然的に孕むことになる現代的な意義に目線を向けるきっかけを得ることができました。

安孫子先生の授業の様子

村上靖彦先生の授業 (2014)

大阪大学の村上靖彦先生による授業が行われました。今回の授業のテーマは、「日本の精神看護医療の現象学」でした。村上先生は、医療現場の出来事や看護師と患者への直接のインタービュー結果を、現象学の立場から解釈されており、今回の授業では、精神病院の現状分析を通じて、より実践的な哲学のあり方とその方法が提示されました。以下に議論の一部をご紹介します。

あらゆる組織には規範が存在します。精神病院で目にするのは、入院患者を保護し管理するという目的で、施設のつくりそのものにおいて、規範が空間化されていることです。この空間化された規範は、身体の延長として、患者の身を守っていると考えられるでしょう。またそれは、隔離という観点からすれば、『監獄の誕生』(1975)でミシェル・フーコー(1926-1984)が説いた「規律権力」を、反抗する身体への空間的な拘束という形で、端的に実現させているともいえます。この意味において精神病院には、物理的に拘束して保護するという可視空間の規範が存在するのです。さらに、このような規範の空間化は、物理的な水準にとどまりません。というのも、上から下へ指示を伝達する看護師同士や、看護師と受け持つ患者のルールに基づいて、病院は組織され、規範は作動していくからです。とはいえ、ここでいう看護師と患者のルールは、強制的ではなく、共同体を維持するための自発的で内発的なものです。看護師は、受け持つ患者にはきびしくしつつも、他の患者にはやさしく接するなど、患者によって情動上の距離の違いをつくり、病棟の人間関係を空間化して、規範にバランスを与えているのです。

こうした規範が作用する中で、看護の要点となるのは、そこにおいて、いかに自由で自発的な秩序を作り出すかということです。つまり、厳然とした規範を前提としつつも、それと異なる自由な空間をいかに作り出すかということです。例えば、患者が看護師から見られ、慕われ、散歩したり、一緒に楽しむ中で、規範とずれた別の空間が生成されてくるというわけです。それは、規範の空間を揺さぶる「遊びの空間」といえるでしょう。このようにして病院は、単に規範が可視化した管理の空間ではなくなります。多くの患者にとってそこは、複雑な社会とは区別された、安心できる「家」となります。イギリスの精神科医ドナルド・ウィニコット(1896-1971)が問題にしたように、長期入院患者にとって病院は、隔離された環境でありながら、逆説的に、そこから出られない「我が家」でもあるのです。

しかし、入院のすべての段階においてより重要なことは、病院から「外」に出る回路が存在することです。つまり、単に散歩によって外の世界に触れるだけでなく、病院の規範から解除されて社会の規範の中に収まるまで、患者は病院の内と外を往来できるということです。この意味で、現在の医療が目指す病院とは、患者が社会に出るための準備といえます。こうした施設で、とある患者は入退院を繰り返し、看護師は異動でさまざまな病棟を循環するなどして病院内の人間関係の固定化を防ぎ、看護しやすい環境と、それに伴う自由な遊びの空間は存続していくのです。

村上靖彦先生