Hosei Erasmus Mundus Program Euro Pholosophy

Hosei Erasmus Mundus Program, Euro Pholosophy - Over the two academic years 2008-9 and 2009-10 at Hosei University, classes for the first semester of "Euro Philosophy", an EU Erasmus Mundus Master Program, have taken the form of one-month intensive lecture series. This is the first instance in Japan of administering such a large-scale intensive lecture series within the Erasmus Mundus Master Program.

Report

チエリー・オケ先生の授業 (2014)

リヨン第三大学のチエリー・オケ先生の全四回の授業が行われ、今年度の授業はさまざまな側面から見た「科学哲学と歴史」をテーマに行われました。

第一回は「科学哲学一般」と題して、科学がいかにして構成されていくのかという点について科学における「仮説」に注目してさまざまな議論が紹介されました。ピエール・デュエム(1861-1916)の、後にクワイン(1908-2000)に拡張されることによって「デュエム-クワイン・テーゼ」と呼ばれるようになった彼の帰納主義への指摘から、カール・ポパー (1902-1994)の「反証可能性」やカール・ヘンペル(1905-1997)の「D-NモデルとI-Sモデル」が主要なテーゼとして挙げられていました。これらに一貫して言えることは、仮説とはそもそも何らかの恣意の下でしか考えられないものであり、つまり単独で作用する仮説そのものは存在しないということです。純粋かつ中性的な、いわば孤立した仮説は存在しないのです。デュエムの場合、それは「決定実験」の弱体化を促すものであり、既存の理論に対する反証可能性を持った新しく得られた観察事実は、何らかの理論に基づいていることを示しています。ポパーにおいては、「主要仮説」と「補助仮説」という区分によって上記の主張が支持されます。そしてヘンペルでは、「ヘンペルのカラス」が示すように、それは、科学的仮説の検証を演繹的に行うことの危険性、つまり仮説そのものから予想され演繹されうる他の仮説の帰納的検証の際の危険性の指摘として提示されました。

続く第二回は「歴史的認識論」と題され行われました。例えば生物学がダーウィン(1809-1882)によって「創造説」から「進化論」にシフトしたように、数学ではユークリッド幾何学が非-ユークリッド幾何学によって包括されていくように、対立する概念が同一の学問の中で包括と交代が行われており、いわばそこでは科学の歴史の転換点があることが説明されていきました。しかしまず、科学は歴史を持つのでしょうか。この質問の意図はこうです。科学が普遍的な真理を探究し、そして発見しうるものなのであれば、科学においてはその塗り替えは存在しないのです。昨日真理だったものが、今日真理でないことはありえないのです。科学に歴史を認めることは、科学の自己否定であると言えますし、科学における連続性と非連続性の問題と緊密に関わっています。そんな中、科学における非連続性に言及したトマス・クーン(1922-1996)が『科学革命の構造』で用いた「パラダイム論」は言うまでもなく科学内の断絶と包摂と示しています。従って、彼は単に相対主義を述べたわけでも科学のその意義を減退させたわけでもないのです。科学はその理論的な真理性の追究の中で逸脱と停滞を繰り返すのだと言えます。また、第二回ではクーンに先立ち科学における非連続性をその著書『否の哲学』(1940)で繰り広げたガストン・バシュラール(1884-1962)にも触れており、「認識論的切断」や「認識論的障害」など、彼が後世にもたらした科学史的意義の深い術語とその思想の説明も行われていました。

第三回では、「フェミニストの認識論」が扱われました。女性の身体は認識の対象でしかないのか、すなわち科学者がわれわれというとき、その「われわれ」は対象でなく主体としての女性も含意しているのかが大きな議論のポイントだったように思います。そこで、まず根本的な問題として「性差」についての二つの観点が取り上げられました。性の対象としてのみの女性という問題は、思いがけぬところで科学における客観性の問題につながっていきます。主体としての女性の排除とは、男性の欲求の対象としての、あるいはこう言って良ければ、男性の価値判断の対象としての女性も原理的に要求することになります。つまり、科学における客観性は、こうした「女性」を排除することによって情念や価値から身を守っているのです。性差とはそもそも社会的な区分でしかないのだとフェミニストたちは主張します。いかに生物学的な性を語ろうと、そこに、人間は社会生物学的な形でしか、それを語りえません。そのため、オケ先生は実はこうした視点に基づいていた客観性をイデオロギーと批判していました。

第四回は「科学社会学」と題され、科学に対する外在主義的なアプローチが扱われ、マルクス(1818-1883)的な意味でのイデオロギーとしての科学が問題になっていました。オケ先生は、ガリレオとニュートンがまず研究したのがなぜ弾道学なのかという問いを提示し、端的に戦争のためだと答えました。簡単に説明を加えるなら、戦争のためと言うのは、お金になるからということでしょう。研究には莫大な資金が必要になります。つまり、科学者たちの研究テーマの設定にも、そこから得られる知識にも、その資金調達の方法にも、科学ならざる者としての社会が、あるいはこう言ってよければ政治が介入しているのです。こうした、ある社会内において生成される科学に対して、いわば越境する科学として民族的-方法論が挙げられており、授業の最後では、日本における進化論の受容といったことまで触れられました。

チエリー・オケ先生
授業の様子

ヴァンサン・ジロー先生の授業 (2014)

京都大学のヴァンサン・ジロー先生による全三回の授業が行われました。中世思想と記号というテーマで、第一回ではアウグスティヌス(354~430)、第二回ではディオニュシオス・アレオパギタとエリウゲナ(810~877)、第三回ではニコラウス・クザーヌス(1401~1464)を中心にして、彼らにおいて記号が持っていた意味作用に着目し、彼らが存在ないし現象についてどう捉えていたのかを確認していきました。いわば、今回の授業でジロー先生は中世における存在の歴史に迫っていったと言えます。

創世記において、神が「光あれ」と言うと同時に光が存在するようになったと言われています。ここに、典型的な記号があります。神の言葉がすべての存在の原因だとアウグスティヌスに限らずキリスト教的世界観においては考えられますが、そうした場合、われわれが向き合うのはただこのわれわれに残された記号のみであって、実際の神の行い、ここでは創造の現場ではありません。この場合、われわれは痕跡をたどるしか、あらゆる存在について知る方法を持ちえないのです。こうした所与の記号の持つ意味作用と神による自己表明の密接な関係が第一回では注目されていました。

続く第二回では、『天上位階論』で知られるディオニュシオス・アレオパギタの思想と、彼の作品をラテン語に訳しその発展につとめたエリウゲナにおけるアウグスティヌス的な記号解釈を越え出る独自の存在論を見ていきました。そこで重要になるのが、アウグスティヌスとプロティノスにおける存在と非存在理解の違いでした。前者にとって、非存在はまさしく存在しないもの、神が創造しなかったものしか意味しませんが、後者にとっては、その不在も含めて神の発顕に関わるものだと考えていました。エリウゲナは、ディオニュシオス・アレオパギタにおけるプロティノス的思想をくみ取り、神の発現・流出と神への還帰を認めることによって、記号解釈による存在理解の射程を広げたと言えます。

第三回では、『知ある無知』で有名なニコラウス・クザーヌスの『要綱』における記号解釈が取り上げられました。第二回までで広げられた射程を、いわば収斂させていくような形で、彼における「対立物の一致」という原理を見ていきました。この一致は理性的記号解釈の下での、いわば記号の記号ないし記号から記号へという動きを想像において知ることであり、それは理性を越えた、理性から逸れたものであります。知のその先にあるのは人の理解を逸脱していく無知なのです。そのため、彼は、神は世界を超越しており、われわれは無知を知るとき神に触れることができると考えていました。ここに彼の神秘主義的傾向がはっきりと見られます。また、他方で彼は記号を自然の徴表と捉え、独自の数理主義的世界観をも提示しています。彼を偏った一面的規定に留まらず、こうした二つの側面から存在、知、記号に迫っていったと言えるでしょう。

全三回を通じてわれわれはいわば創造の記号を見ていきましたが、総括としては、アウグスティヌスにおいて見られた記号解釈における存在と非存在の間の断絶を埋める形でエリウゲナがその思想をディオニュシオス・アレオパギタの思想と共に発展させ、クザーヌスにおいて記号解釈の神秘主義的側面と数理的側面があらわれ、近代へと続いていく道ができたように思えます。中世という時代を記号というテーマで振り返ることで得られたものは哲学史的に見ても大きなものになりうるだろうと、筆者は感じました。

授業の様子
ヴァンサン・ジロー先生