Hosei Erasmus Mundus Program Euro Pholosophy

Hosei Erasmus Mundus Program, Euro Pholosophy - Over the two academic years 2008-9 and 2009-10 at Hosei University, classes for the first semester of "Euro Philosophy", an EU Erasmus Mundus Master Program, have taken the form of one-month intensive lecture series. This is the first instance in Japan of administering such a large-scale intensive lecture series within the Erasmus Mundus Master Program.

Report

ジャン‐ジャック・ヴュナンビュジェ先生の講演会 (2014)

5月23日、法政大学九段校舎にてリヨン第三大学のジャン‐ジャック・ヴュナンビュルジェ先生による「ベルクソンとバシュラール―時間、リズム、イマージュ―」と題された講演会が行われました。

アインシュタインの相対性理論をはじめとする科学革命に影響を受けながらも、独自の哲学を展開させ人間の「生」の領域、「生」の持つ力に視線を向けたベルクソン(1859-1941)に自己の哲学の芽生えを見出し、自身の哲学を構築していったバシュラール(1884-1962)。本講演のタイトルが示す通り、二人の思想家の比較から両者の線引きへというように議論が展開されていきました。

まずは、両者に共通の主題の一つである「時間」とその解釈の差異の検討がなされました。ベルクソンの著書『意識に直接与えられたものについての試論』(1889)で展開された、「純粋持続」と彼が呼ぶものを基点として二人の哲学者の時間‐空間論が紹介されました。ベルクソンにとって、時間とは科学的ないし数学的知性によっては決して捉えることのできない連続する流れでした。他方、ベルクソンが上記のような理由から時間をメロディーと例えたのに対して、バシュラールはリズムという言葉を用いて時間を説明していきます。持続し流れていくものは、その根底において、意識がとらえる各々の瞬間という時間‐空間的な断絶を矛盾した否定的継起として内に抱えているという主張が、彼の時間論における大きな基盤となっています。諸瞬間を総合し構成していく、つまり瞬間を永遠へと導くというのが彼の時間‐空間論でした。ここで瞬間と永遠を結びつけるものこそ、リズムにほかならないのです。こうした両者の時間解釈における差異を、ヴュナンビュルジェ先生は、前者を「水平的」、後者を「垂直的」と形容しています。ここで重要なことはこうです。すなわち、こうした両者の時間‐空間論において、ある現象を説明するとき、ベルクソンはどうしようもなく生命の持つ持続の相と一種の即自的物質との対立という形をとらざるをえないこと、またバシュラールは認識主体が見出さざるをえないその現象に内在している矛盾しあうもの同士の対立という形でとらえているということ。この点が、次に展開される両思想家における創造に関わる「力」の問題へと関わってきます。

議論は、両者の時間論の検討の末に姿を現し始めた「力」の問題について議論を展開していきます。ここでは、先ほど取り上げた『意識に直接与えられたものについての試論』に加えて『創造的進化』(1907)におけるベルクソンの「創造」についての主張も合わせて見ていく必要があります。先ほど確認したように、ベルクソンは、生命の持つそれ自身の持続における予測不可能で自己の内に収まろうとしない創造の力、つまり異質的であろうとする力と空間的な物質のそれに対する抵抗力、つまり持続を同質性へと引き込もうとする力とのせめぎ合いによって創造のプロセスを語ります。ベルクソンによれば、前者の力と後者の抵抗力は、前者が異質的であろうとするのに対し後者が同質性を要求することで、自己の内的、質的な多様性が生まれるのです。つまり、ベルクソンにおいて質的多様性が語られる際には、常に相互に外在的な二項の対立が前提とされています。他方、バシュラールは、持続の根底には孤独な諸瞬間が、原初的な否定性が存在していなければならないと彼が言うように、対象それ自身の内的矛盾を弁証法的に止揚し、構成していくことで創造を語っています。想像力ないし詩的言語によって、非連続的なものをいかにして連続的なものへと変化させていくのか、そこが彼の認識論における重要な点でした。いわば持続という生の力と孤独な諸瞬間としての無という抵抗力との対立を止揚させることで、対象は実体的深さを得ることができるのです。つまりバシュラールにとって、創造的な力とその抵抗力は、構造的ないし合目的的にそれぞれの内に含まれているものなのです。

ここまでを振り返ってみると、議論の全体の争点は、抵抗力という創造における一つの契機であり自己に対する他性を両者はどのようにして受け入れたのか、そしてある現象ないしある主体の分化、変容はいかにしてなされるものなのか、という二つに収斂していったように思えます。講師のヴュナンビュルジェ先生は、相互浸透的な連続性にこだわりすぎたベルクソン的創造を説明する図式より、バシュラールのように原初的な否定性を重視したそれの方が入念に同一性と差異性の混淆を語りえたのではないかと総括し、質疑応答へと移りました。

創造性と生成変化、さらには時間‐空間論と主体の認識および存在の在り方にきわめて深く関わっている両思想家の対立と共通項への評価の難しい問題群への問いに一段落つけた今回の講演会は、参加者のこころに大きなテーゼとして残ることになるだろうと、筆者は感じました。

講演会の様子
左から、通訳を担当なさった藤田尚志先生、講師ジャン‐ジャック・ヴュナンビュルジェ先生、司会の安孫子信先生
通訳の藤田尚志先生と講師ジャン‐ジャック・ヴュナンビュルジェ先生

藤田尚志先生の授業 (2014)

九州産業大学の藤田尚志先生による三回の講義が行われました。今回の講義のタイトルは、「Localiser l'illocalisable. Une lecture de Matière et Mémoire de Bergson」であり、読解の中心となるテクストは、ベルクソン(1859-1941)が、哲学の普遍的テーマの一つである心身問題を扱った第二の主著『物質と記憶』(1896)でした。

本書でベルクソンは、心身二元論における、心(精神的なもの)の領域として「記憶」を、身体(物質的なもの)の領域として「脳」を取り上げています。記憶と脳の関係を考えた時、人がまず思い浮かべるのは、記憶は脳のどこにあるのかということでしょう。しかし、周知のように、本書においてベルクソンは、記憶は脳内に局在するという仮説を徹底的に批判しています。ベルクソンによる記憶とは、思い出を頭の中に整理する能力ではないからです。それゆえ、この主張に対して、物質的世界を擁護する立場から、ベルクソンは、しばしば批判されてきました。つまり、結局のところベルクソンは、記憶についての観念的な議論に終始しており、空間や場所といった実在の問題を十分に捉えていないというわけです。こうした思想史的背景をもとに行われた本講義で、印象深い論点は、カント(1724-1804)や、二十世紀フランスの主要な哲学者たちとの議論の比較を通して、『物質と記憶』の中に、場所の論理、あるいは場所学を見出そうとする点でした。確かに、ベルクソンは、記憶を空間のどこかに還元してしまう仮説を批判しているものの、記憶に「場所」を与えることを拒否しているわけではありません。じっさい、本書の一例として、「身を置く」といった場所にかかわる諸々の表現が、物質的なものについてだけでなく、記憶や諸観念など精神的なものについても使用されているのです。したがって、ベルクソンにとって空間と区別された意味での「場所」は、記憶と対立するものではありません。つまるところ、彼が記憶の実在を認めようとする仮説の批判を通して目指しているのは、逆説的にも、場所なきものに場所を与えることであり、その結果、『物質と記憶』は、場所について徹底して思考された書として読めるわけです。より正確に言えば、本書を解読するためには、身体や脳、さらには「知覚」を対象とする物質的な場所と、記憶や「持続」を対象とする精神的な場所を区別して考える必要があります。言い換えると、この観点は、客観的に与える場所と、主観的に与える場所の差異を問うことになるでしょう。ここで重要なのは、『物質と記憶』のねらいが、記憶は存在するか否かを問うことではなく、性質の異なる二つの場所を探ることにあるという主張なのです。このように本講義は、ベルクソンの難解なテクストを、読者の意表を突く観点から、わかりやすく論じることで、非常に興味深い内容となりました。

藤田尚志先生
授業の後で