Hosei Erasmus Mundus Program Euro Pholosophy

Hosei Erasmus Mundus Program, Euro Pholosophy - Over the two academic years 2008-9 and 2009-10 at Hosei University, classes for the first semester of "Euro Philosophy", an EU Erasmus Mundus Master Program, have taken the form of one-month intensive lecture series. This is the first instance in Japan of administering such a large-scale intensive lecture series within the Erasmus Mundus Master Program.

Report

反省会 (2015)

6月26日に2015年度ユーロフィロソフィ法政プログラムの反省会が、法政大学ボアソナードタワー701教室で行われました。

それに先立ち、同タワー25階のスタッフクラブで昼食会が行われました。プログラムに参加学生と日本人学生アシスタントが全員揃う最後の食事会であったため、皆との別れを惜しみつつ、今後はどういった予定を過ごしていくのかなど、楽しい談笑の時間となりました。

食事会にて

反省会では、本プログラムの日本側責任者である法政大学安孫子信先生の司会の下、今年度の授業の面と日本での生活面について細かく意見交換を行いました。法政プログラムに参加した学生からは、全体として興味深い講義内容で満足したと共に、より日本の哲学や思想についても学べぶことができればという感想が出されました。生活面では、それぞれ充実した日本での日々を過ごせたようです。他のことも含めて、相互に確認できたことを来年度へと活かしていければと思いました。

反省会の様子
集合写真

今年度も本プログラムは無事に終えることができました。実際に肌で感じる身近な生活を共有しつつ、一緒に西洋哲学を学ぶことで、国境を越えた本当の文化交流が果たされたように思います。国内外から駆けつけて講義をして下さった先生方のご協力に、改めて感謝を申し上げます。どうぞ来年度も宜しくお願い致します。

キアラ・メンゴッツィ先生の授業 (2015)

チェコのフラデツ・クラロベ大学キアラ・メンゴッツィ先生の6回の講義が行われました。講義のテーマは「哲学と文学との間の認知の戦い―ポスト・コロニアルのシナリオ」です。

メンゴッツィ先生の授業は、ヘーゲル『精神現象学』の中の「主人と奴隷の弁証法」という有名な箇所の説明から始まりました。これは、人間が自由で自立的な存在であるためには他者からの承認が必要であり、人々の間では相互承認を求める闘争が生じるが、当初は従属的存在である奴隷は、労働を通して主人を己に依存させ最後は自立するに至る、と主張するものです。この「主人と奴隷の弁証法」は、ポスト・コロニアル文学の解釈に多様に関わります。

以上の説明を受けて、第二回からは学生の発表を中心に授業が進みました。まず取り上げられたのはフランツ・ファノン(1925-1961)です。ヘーゲルの自己意識の問題は、ファノンの『黒い皮膚・白い仮面』(1952)においても色濃く現れます。しかし、黒い皮膚を持っているという意識が他者との関係にもたらす歪みを、「主人と奴隷の弁証法」は解き明かすのかについては、ファノンのこの作品は懐疑的な姿勢をとっている、と指摘されました。

次にはジャン=ポール・サルトル(1905-1980)の『存在と無』(1943)と『黒いオルフェ』(1948)が取り上げられました。そこから出発して広く、プロレタリア文学や、続くポスト・コロニアル文学について、議論がなされました。「主人と奴隷の弁証法」を軸にして、特に言語の問題が取り上げられました。サルトルの『黒いオルフェ』が序文となっている『ニグロ・マダガスカル新詞華集』(サンゴール編)は黒人的エクリチュールを確立したとされますが、フランス語で書かれています。マイノリティ言語側が、あえて植民側の言語を使いつつ、"ステレオタイプ"で知的な文学活動をするという行為は後に、ヌルディン・ファラー やチヌア・アチェベ、さらにカズオ・イシグロなどにも引き継がれていきました。

講義の後半ではエンニオ・フライアーノやミシェル・トゥルニエなど、ポスト・コロニアル作家の文学作品がまさに取り上げられました。トゥルニエで取り上げられたのは、無人島を舞台に話が繰り広げる『フライデーあるいは太平洋の冥界』です。ロビンソンとフライデーという「文明」と「野蛮」を体現させた正反対の二人の登場人物は、特異な主従関係を通して、他者認識と自己認識にまつわるヘーゲルの「主人と奴隷の弁証法」の諸問題のパロディ化を見事に遂行しているのです。

メンゴッツィ先生の授業では、哲学の問いを、文学作品の更なる解釈の手引きとして用いるということだけでなく、文学作品を通して、哲学を疑い、哲学を更に深く考え直すことが行われました。文学の持つ独特の語り方や、言語の使い方などは、哲学を掘り下げて、哲学に新たな展開をさえ与えうるものなのです。こうして受講者たちは、現代文学の、哲学的でポエティック、かつポリティックな生命力に触れる、とても刺激的な六日間を過ごすこととなりました。

授業風景

発表する学生たち

合田正人先生の授業 (2015)

明治大学の合田正人先生による三回の講義が行われました。講義のテーマは「さまよう楕円―デリダ/ドゥルーズの戦争(ポレモス)」です。

授業の一コマ

講義は、合田先生が四国の出身であるということもあり、まず日本列島の話から始まりました。日本は6000以上の島で成り立ち、それぞれの島や沖には住人や漁師がいます。「領土」「領域」について考えた時、その境界とはどこに存在するのか、何をもってここまでは日本、ここからは韓国、中国、ロシアとなっていくのだろう、と話は進みます。

そしてたどり着くのは、講義のテーマでもあるジャック・デリダ(1930-2004)とジル・ドゥルーズ(1925-1995)であり、二人の哲学者の間をさまよう楕円、すなわち、ふたりの意見の境界はどこにあるかという問いでした。実際にドゥールーズとデリダは同時代に活躍した哲学者であり、両者の思想は背反しつつも、共通点を持ちます。合田先生はその点に着目し、早くから二人の対比研究を手がけてこられました。

二人の同時代の哲学者が、まだ考えられたことのないことを、独自の方法で、思索し、それが公海上で島となっていく。それは二人のどちらに属するものなのか。これはまさに海上のその島が、日本であったり、中国や韓国、ロシアのものであったりすることと似ています。ドゥルーズは、ジャン・イポリットに従ってヘーゲルを読み、ヘーゲルのとくに言語理論が言う表現に境界を見ました。デリダは、カントが感性と悟性の共通の根とした想像力と記号に境界を見ました。境界ということ、つまりは境界線をひくということ、このことは、ドゥールズとデリダの二人に共通することだったのです。

授業の最終回で、ヨーロッパ学生の要望に答えて、合田先生はもともとの予定内容を変更し、田辺元(1885-1962)、鶴見俊輔(1922-)、竹内好(1910-1977)ら日本人哲学者の思想のイントロダクションをして下さいました。これまで日本哲学について学んだことがないヨーロッパ学生にとって、この講義は大変に新鮮かつ貴重な機会となりました。

授業風景