Hosei Erasmus Mundus Program Euro Pholosophy

Hosei Erasmus Mundus Program, Euro Pholosophy - Over the two academic years 2008-9 and 2009-10 at Hosei University, classes for the first semester of "Euro Philosophy", an EU Erasmus Mundus Master Program, have taken the form of one-month intensive lecture series. This is the first instance in Japan of administering such a large-scale intensive lecture series within the Erasmus Mundus Master Program.

report

原和之先生の授業 (2015)

東京大学の原和之先生の三回の講義が行われました。今回の講義のタイトルは、「ラカンにおける「欲望」概念の練り上げ:〈他者〉とその存在の問題」でした。

第一回の講義では、ラカン(1901-1981)の博士学位論文(1932)の中に見出される「欲望の欲望」という概念と「欲望の公準」 という構想について、コジェーブ(1902-1968)のテクスト『ヘーゲル読解入門』(1947)を参照しながら、説明がありました。

第二回の講義では、上記の時期のラカンの議論において、他者の欲望を知るという問題が、他者が言おうとすることの意味を知るという問題と重なっており、その延長に、ソシュール(1857-1913)を創始者とする一般言語学へのラカンの参照があったことについて指摘がありました。また、その結果練り上げられた、「シニフィアン連鎖」の概念と「グラフ」についても概観しました。

第三回の講義では、フロイト(1856-1939)における「エディプス・コンプレックス」の概念と、ラカンがそれを作り直すために行った作業について、主に説明がありました。

これらの講義で、筆者が最も考えさせられたのは、欲望と他者の関係でした。なぜ人は望むのでしょうか。ラカンによれば、それは、何かを欠いているからです。人は本質的に満たされない存在なのです。逆に言えば、望まないことは、欠如のない「全能さ(=ファルス)」を意味します。しかし、人は全能ではなく、「望む主体」として、生きなければなりません。一見、一人の主体が、何かを望みながら生きていくことは、個人的な出来事のように思えます。けれども、ラカンによると、ある主体の望みは、他者の望みです。いわば、他者の存在なしに、何かが望まれるということはありません。それは、人が言語によってものを考え、表現する時に、同じ言語によって考え、その表現を理解できる他者の存在が想定されていることに似ています。なぜなら、じっさい、人が望んでいることは、言語によって表され、他の人にも伝達されるからです。つまり、ある個人の望みは、他者との関係において生じ、共有されると言えるでしょう。とはいえ、そもそも人は、いつどのように、他者との関係で、望む方法を身につけるのでしょうか。その答えを探る上でとても興味深いのは、幼児における「前エディプス期」をめぐるラカンの議論です。生まれたばかりの子は、自分の面倒を見てくれる「母」の存在を必要とします。子が声を出して呼びかけると、「母」は応じて、空腹や排泄など子の身体的な「欲求」を満たしてくれます。いわば、「母」はそれを望んでくれます。そうして、子は、「母」が望むことを望み、いつも「母」が自分のそばにいてくれることを期待しますが、「欲求」が満たされると、「母」はいなくなってしまうことに、子は気づくようになります。そこで、子は、「母」が留まってくれるための口実として、「欲求」を表すようになります。こうして「要求」を覚えた子は、絶えず何か「欲求」を示すことで、「母」を呼ばなければならない、欠如のある主体となります。この主体が抱いているのは、単純に身体的な「欲求」というよりも、むしろ、それを通じた「愛の要求」です。しかし、やがて子は、「母」が本当に望んでいるのは、「父」に喩えられる「想像的ファルス」であることに気づき始めます。そして、「母」が何かを望むことをやめ、自分の元からいなくなってしまわないために、子の「要求」は「父」にも向けられるようになります。いわば、「母」が望んでいることを「父」に望ませるために、子は「父」に「要求」を試みるのです。こうして、いつまでも完全に満たされることなく、望み続けることを強いられるようになった主体は、無限の「要求」そのものからの解放である「欲望」を抱くようになるのです。以上の議論では、両親という他者との関係において、子の望む仕方が、いかに変容していくのかについて、巧みに描写されていますが、幼児期のこうした過程を経ることで、人の望みとその表現方法は、成長すると共に、多種多様に変化していく理由が、明らかにされていると言えるでしょう。

原和之先生
教室の様子