Hosei Erasmus Mundus Program Euro Pholosophy

Hosei Erasmus Mundus Program, Euro Pholosophy - Over the two academic years 2008-9 and 2009-10 at Hosei University, classes for the first semester of "Euro Philosophy", an EU Erasmus Mundus Master Program, have taken the form of one-month intensive lecture series. This is the first instance in Japan of administering such a large-scale intensive lecture series within the Erasmus Mundus Master Program.

report

村上靖彦先生の授業 (2013)

6月6日と19日の二日間で、全三回の村上靖彦先生の授業が行われました。

村上先生は現象学を専門としていますが、医療現場に携わる人々へのインタビューを通じて、人間関係の実践の現場における現象学的構造を研究しています。今回の講義は村上先生が行った看護婦へのインタビューをもとに、医療の実践を規定する構造を現象学的視点から解き明かすことを目的としています。

一日目の授業(二回)は、病院の人工透析室で働くある看護婦(Dさん)へのインタビューを扱いました。人工透析(dialyse)とは機械を使って血液の老廃物を除去する治療法で、腎臓の機能に障害を持つ人が利用するものです。インタビューの相手であるDさんは、人工透析を行う部屋で働くベテランの看護婦で、患者の様子と他の同僚たちの仕事を監督する立場にありました。透析室はレイアウトに特徴があり、患者たちが横になるベッドは部屋の壁にそって並べられ、部屋の中央にはナースステーションが置かれています。この部屋の中で、Dさんはナースステーションから部屋内のすべての患者と、同僚の看護婦たちが患者に施す治療が見える状態にあります。人工透析は非常に時間のかかる治療法で、一回の透析に五、六時間かかり、しかも患者はその間ずっとベッドで横になっていなければならないため、医療スタッフは患者の様子を逐一観察している必要があるのです。つまり患者や他の医療スタッフを監視するDさんの「眼差し」は、病室内に一定の治療の形態を強いる権力を発揮しているわけですが、重要なのはそのような権威的関係が、病室の空間的構造に由来しているという点です。この構造はジェレミー・ベンサム(Jeremy Bentham 1748-1832)が構想した有名なパノプティコン(panopticon一望監視システム)とよく似ており、またミシェル・フーコー(Michel Foucault 1926-1984)がこのパノプティコンについて指摘したのと同様のことが、透析室においても起きています。つまり、病室の全体がナースステーションから「見える」という事実それ自体が、(実際に誰かが見ているかどうかにかかわらず)監視の機能を果たすのです。

また、時間的構造も問題となります。透析室を訪れる患者は五、六時間の透析治療を週三回行わなければならず、長い時間を医療スタッフと共にすることになります。そのため患者の看護婦に対する依存的関係が、半ば自然発生的に現れてくるのです。

Dさんへのインタビューでわかったことは、Dさん本人は自分が周囲を監視し、同僚や患者に対して権威的に振る舞わなければならない立場に置かれていることは自覚していても、それが透析治療の空間的・時間的構造によって規定されたものであるという意識を持っていないということでした。彼女自身はこうした実践はあくまで患者のためを思ってやっていることだと認識していたのです。村上先生によればこうした構造は本質的に無意識のものであり、意識のレベルでの行為を可能にさせる「地平(horizon)」としての役割を果たしています。それは意識の内部にあるとされる心理学的な無意識と異なり、意識の外部にある「現象学的無意識(inconscient phénoménologique)」とでも呼ぶべきものです。実際、Dさんはインタビューの後に透析室を離れ、訪問看護の領域で働くようになると、それまで抱いていた看護の実践についての考え方を改め、患者には依存的関係に陥るのではなく「旅立ってほしい」と考えるようになったのです。

二日目の授業(一回)は、重度の障害を抱えた妹を持つ、ある小児科の看護婦(Fさん)へのインタビューを分析しました。Fさんの二人の妹は脳障害を抱えており、特に上の妹は言葉も話せないほど障害が重いのですが、Fさんが子供の頃にその妹が痙攣を起こして倒れたとき、Fさんは倒れた妹の姿を見せてもらえず、また家族はFさんに対して、妹の障害については「わかってるでしょ」というような態度でいたので、妹に何が起こっているのかについて説明されることもありませんでした。つまりここには妹の障害に関する「可視性(visibilité)」の欠如と「疎外(aliénation)」があり、それが小児科の看護婦になるというFさんの選択の背景になっているのです。

Fさんは妹の姿を人に見られるのをどことなく恥ずかしいと感じており、妹のことはなるべく話さないようにしていたのですが、看護婦として障害のある患者たちと接触し、その生活を見ることで、「障害があっても大したことじゃない」と思うようになり、妹のことも普通に話せるようになったといいます。このことはFさんが患者の身体の「可視性」を出発点として、行動のための地平を見出したのだと分析することができます。

講義ではこの後、Fさんがある終末期の患者との接触を通して新たな行動の地平を獲得し、看護婦の仕事としてのケアを超えた行動(尊厳死の同意書を書くのを手伝うなど)が可能になった事例が紹介されていました。これらの事例が示しているのは、行動には関係の地平としての構造があるということ、そしてどれだけ個人的・特殊的な行動においても、その構造には何らかの普遍性を見出すことができる、ということです。

村上靖彦先生