Hosei Erasmus Mundus Program Euro Pholosophy

Hosei Erasmus Mundus Program, Euro Pholosophy - Over the two academic years 2008-9 and 2009-10 at Hosei University, classes for the first semester of "Euro Philosophy", an EU Erasmus Mundus Master Program, have taken the form of one-month intensive lecture series. This is the first instance in Japan of administering such a large-scale intensive lecture series within the Erasmus Mundus Master Program.

report

フロランス・ケマックス先生の授業 (2013)

4月8日から19日までの二週間、フロランス・ケマックス(Florence Caeymaex)先生による現象学の講義(全六回)が行われました。講義の中心的テーマは「有限性(finitude)」とされていましたが、主な内容はフッサール(Edmund Husserl 1859-1938)に始まる現象学の成り立ちと、それがハイデガー(Martin Heidegger 1889-1976)やサルトル(Jean-Paul Sartre 1905-1980)、メルロ=ポンティ(Maurice Merleau-Ponty 1908-1961)などの思想とどのような繋がりを持つかについての説明でした。テーマに沿ってひとつの議論を展開するというよりは、現象学についての概説という印象を受けました。

第一回と第二回は有限性の概念を巡る歴史的・思想的な変遷を解説するため、ミシェル・フーコー(Michel Foucault 1926-1984)の『言葉と物』(Les mots et les choses)、およびメルロ=ポンティの『知覚の現象学』(Phénoménologie de la perception)が扱われていました。フーコーは『言葉と物』の中で「人間」という概念の歴史的な成り立ちを明らかにしようと試みていますが、それによると有限の存在としての人間という認識が成立したのは近代(特にカント)以降でした。近代において人間は自らを他の生物たちと同様にひとつの歴史的産物として認識するようになり、人間の有限性というテーマが浮上することになります。近代の哲学もまた、この有限性の認識の上に築かれており、その代表的なものとしてフーコーが挙げているのが現象学です。

第三回と第四回の講義ではハイデガーの『カントと形而上学の問題』(Kant et le problème de la métaphysique)を中心として、ハイデガーが人間の有限性をカント哲学の中心命題として捉えていたこと、またハイデガー自身の哲学もこの有限性を基盤として築かれていったものであることが解説されていました。

第五回と第六回の講義ではフランスの現象学(主にサルトル)を扱い、それがフッサールの思想とどのように異なっているかを学びました。フッサールは我々の自然的な態度が知覚に加えている判断を停止(épochè)し、あらゆる知覚物、ひいては世界それ自体の存在を「括弧に入れる(mettre en parenthèse)」ことで、物事のありのままの認識に辿り着こうとしました。現象学的還元(réduction phénoménologique)と呼ばれるこの手続きによって、フッサールは知覚経験が持つ二つの本質的特性を発見しました。ひとつは絶対的な意識作用である「超越論的主観性(subjectivité transcendantale)」、もうひとつは意識の「志向性(intentionnalité)」、すなわち意識は常に何かについての意識であるという事実です。フッサールにとってこの超越論的主観性は経験の基礎となる第一の明証(évidence)ですが、この主観性が示しているのは自分自身の経験のみであり、他者の存在、また世界の存在を確証するような必然性をもたらしてはくれません。しかし意識は常に志向性を持っています。よってフッサールの思想において意識経験は常に世界へと向かって展開していく、開かれた歩みとして定義されることになります。
サルトルやメルロ=ポンティをはじめとするフランスの現象学者はある部分までフッサールの現象学を継承していますが、その関心は主に意識の志向性にあり、超越論的主観性は彼らにとって疑わしいものでした。またフッサールの現象学は学問の基礎を打ち立てるという意図を持っていましたが、サルトルにもメルロ=ポンティにもそのような意図は見られません。フランスの現象学において意識は受動的かつ有限であり、フッサールにおけるような絶対的な性格は消滅しています。
ここから講義では最後にサルトルに焦点を当て、その思想が人間の有限性に基礎を置いて築き上げられていることを明らかにしています。サルトルは現象学的還元を批判して、自然的態度を停止することなどできないと述べていますが、それは現象学的態度の中で発見される主観性も志向された対象であることに変わりはなく、フッサールの言うような超越論的主観性は成立しないからです。意識作用は自我やコギトといったような主観性を前提とせず、意識の存在は偶然的であるというのがサルトルの考えです。サルトルは『存在と無(L'Etre et le néant)』の中で、意識は実質(substance)を持たないものであり、自己への同一化(identité à soi)を常に拒否する無化(néantisation)の動きであることを本質とすると述べています。一方では、意識は何かについての意識であり、常にこの世界の何かを志向しています。それはつまり、自らを正当化してくれるような何物かを求めるということを意味します。しかし他方で、そうして意識に与えられるのは自分が選んだわけではない数々の状況であり、意識の本質はそのような偶然的状況から逃走することにあります。与えられた状況をそのまま受け入れ、ただ存在している物質から意識が区別されるのは、意識が存在の拒否であるからです。サルトルは意識のこのようなあり方を自由と呼んでいますが、この自由は存在論的条件であり、意識存在(人間)は自由であることから逃れられないため、自由は意識存在を限界づけるものでもあることになります。このようにサルトルは意識存在(人間)を、相反する要素の間で板挟みにされた存在として提示しているのです。

ケマックス先生
ケマックス先生の授業