Hosei Erasmus Mundus Program Euro Pholosophy

Hosei Erasmus Mundus Program, Euro Pholosophy - Over the two academic years 2008-9 and 2009-10 at Hosei University, classes for the first semester of "Euro Philosophy", an EU Erasmus Mundus Master Program, have taken the form of one-month intensive lecture series. This is the first instance in Japan of administering such a large-scale intensive lecture series within the Erasmus Mundus Master Program.

report

授業風景その9 (2012)

九州産業大学の藤田尚志先生の3回にわたる講義が開講されました。

本講義のテーマは「ベルクソン哲学入門――レヴィナス、ドゥルーズとの対決を通して」でした。

本講義ではまず、「ベルクソンとレヴィナスにおける『物質と記憶』」と題するレジュメが配布され、ベルクソン(1859-1941)とレヴィナス(1906-1995)に焦点が当てられました。

まず、前期レヴィナスは、ハイデガー(1889-1976)の問題を乗り越える試みの中で、「ある」や「多産性」といった概念を作りましたが、彼はベルクソンの「無の観念の批判」や「エラン・ヴィタル」などの議論に影響を受けつつも、これらを批判することで、自らの「物質性=質料性」論を構想しているという点が指摘されました。こうして前期の主著『全体性と無限』(1961)の可能性と限界が浮き彫りにされると同時に、ベルグソンの『創造的進化』(1907)における質料性の議論について、その問題点を乗り越える方向が見出されました。

次に、この比較研究の延長線上で、後期レヴィナスの主著『存在するとは別の仕方で』(1974)などで展開される、「記憶/記憶を絶したもの」という概念対について、説明がありました。後期ベルクソンにおけるこれに対応する概念対として、『道徳と宗教の二源泉』(1932)における、「閉じたもの/開いたもの」が挙げられ、前期ベルクソンの『物質と記憶』(1896)の「感覚運動的記憶/純粋記憶」という概念対との関係とともに、レヴィナスとの共通点と差異が示され、これらの議論を整理する過程で、ベルクソン哲学の「無為」という概念の重要性が強調されました。

さらに、上記の議論を踏まえ、「偽なるものの力と記憶の無為―ドゥルーズか、ベルクソンか」というレジュメが配布され、ベルクソンとドゥルーズ(1925-1995)の親和性や類似性ではなく、根本的な差異を取り出そうとする試みが展開されました。ベルクソンにおける「潜在的なものの現働化」から「純粋な潜在性」の論理を抽出する際に、ドゥルーズがベルクソンに対してどのような解釈の暴力を行使しているか、そして、「純粋記憶」の「無力」と「無為」を区別することによって、ベルクソン哲学の根本的な「動的行動性/幽在論」と、奇妙にも見落とされているドゥルーズ哲学の「静的観照性/存在論」との対比を、明確化するという議論が、論拠となる諸テクストの読解とともに示されました。

明確なフランス語による本講義は、ベルクソン哲学の紹介にとどまることなく、フランス本国の研究者と肩を並べる、本プログラムの日本側の教員の水準の高さを物語る機会となりました。(本記事の作成にあたり、東京大学の木山さんにご協力を頂きました)


藤田尚志先生